離見の見

実はmixiの方に書いたことなのですが、日本銀行の広報誌「にちぎん」にインタビュー記事がありまして、その中で「人形と一体化しているという意識に近くなるのでは?」という質問に対してやんわり否定したあとに『浄瑠璃も入ってきて、人形にも目が行き届いていて、でも後ろから自分を見ているような気がするのじゃないでしょうか』と仰っています。


これを読んで世阿弥の「離見の見」を思い出しました。それでちゃんと調べてみたら「花鏡」の中に『観客の見る役者の演技は、離見である。「離見の見」、すなわち離見を自分自身で見ることが必要であり、自分の見る目が観客の見る目と一致することが重要である』と書いてあるのです。


ですから似ているようでちょっと違います。自分から離れて第三者の目で見るという点は同じでも能楽師(世阿弥)は前に立って観客と同じ視点で見るべきだと言っているのに対し、後ろから見ている、と言うのは観客の視点ではありません。面白いです。どこが同じでどこが違うのか。


考えていてふと思ったのは、人形遣いさんは「人形という役者」の後見でもあるんじゃないか、ということでした。能に後見があるように、遣い手は自分で人形を遣いながら同時に後見をしているんじゃないかな?と。奥が深いですよね、芸能は。