気と情と理と

人形から感じるものに「気」と「情」と「理」がある。それらを感じさせるための方法論は素人の私は論ずる域にないので、観ている者として感じたことに過ぎないが。
まず最も大事なのは「気」があるかないか。生身の人間が演じるお芝居であれば当然その人の「気」は多少なりともあるのだが、何しろ人形。気がなければただの木偶である。我等素人がチョット持たせてもらって動かしたところで、やっぱり木偶。ところが上手の手にかかると呼吸鼓動のある生き物に変化する、そこが人形芝居の醍醐味だと思う。
ついそっちを観てしまう、なんていう時はその人形から気が出ているときで、上手の揃った場面であれば、そのとき最も「気」を出すべき人形の気が大きくなるので自然にそちらを観ることになる。他の人形も心得て「気」を引くからだろう。そのバランスがよくないと話の筋に関係なく「気」が出ている人形を観てしまったりする。これ、私的にはペケな舞台だ。
次に感じるのは「情」と「理」。人形さんは大きく分けると"情の濃い人形"と"理にかなった人形"に分けられると思う。もちろんどなたも両方をお持ちなのだけれど、大抵はどちらかが勝っている。観ていて派手で動きも気のうねりも大きいのが「情」の人形でこちらの方が多い。大きな動きが少なくて一見地味なのが「理」の人形で、私のご贔屓はこっちだと思う。観ていて納得のいく動きをされることが多いからである。
それではたと思ったのは玉男さんのことだ。生の舞台を観ていないのに生意気なことを書くが、玉男さんの人形が並外れているのは「理にかなっていて」「情感豊かでもある」からに違いない。両者のバランスが見事に拮抗しているからそこに他の追随を許さない大きな「気」が生まれるのだと思う。華がありながら深い考察もあり、周りとのバランスも見事だ。しかもご本人はまるで見物人のように気を殺して静かに佇んでいる。実に美しい。
玉男さんにはなれないだろうけれど、お若い皆さんは是非、この究極の人形を目指して頑張ってほしいなあ、と思う。どうか、浄瑠璃の世界に深く根を張りながら観客の喜ぶ大輪の花を咲かせてください。