源大夫と藤蔵

まとめる能力が皆無なので全部箇条書きです。ザル頭でメモしなかった細かい話〜〜藤蔵さんの入門のきっかけとか〜〜はちゃんと覚えていないので、いい加減なことを書くといけないので書きません。

  • 七代目竹本源大夫は明治14年大阪生まれ、11才の時に入門して源子大夫を名乗る。明治34年に六代目が亡くなり、その後他の師匠につくが39年に七代目源大夫を襲名。「源大夫節」と言われるスカっとした語り口でたいへんな美声の持ち主、三味線も弾くすっとした男前だったとか。その義太夫語りは「東京好み」とも言われたそう。昭和10年に55才で没。
  • 初代鶴澤藤蔵は七代目源大夫の娘婿。両親は徳島の人で一般家庭に生まれたが三代目鶴澤清六に入門し、清二郎を名乗る。昭和27年に豊竹山城少掾の相三味線となり、初代鶴澤藤蔵を襲名。「藤蔵」という名は過去を遡るといくつかの姓があり、山城少掾は大西藤蔵を継がせたかったらしいが実現せず、初代の鶴澤藤蔵に。山城少掾が引退した昭和34年まで相三味線をつとめた。非常に華やかで力強くきれいな音の三味線だったそうだが、演奏だけでなく私生活も華やかだったとのこと(笑)現藤蔵によれば、爪が強いので糸の押さえが確実で、右手の親指の関節が直角に曲がるので撥をしっかり握れる人だったそう。
  • 十代豊竹若大夫は七代目源大夫の奥さまの弟で、晩年は目が不自由だった。語るときに力を入れて見台をつかんだりしてよく動く大夫だったそう。現豊竹英大夫の祖父にあたる。
  • 八代目竹本源大夫は七代目の弟子。7代目に入門して源路大夫を名乗り、昭和12年に源大夫を襲名、昭和46年に没。
  • 九代目竹本源大夫は初代藤蔵の息子で昭和七年生まれ。14才で四代目竹本織大夫に入門し織の大夫を名乗る。昭和38年に織大夫を襲名し父である藤蔵が相三味線となる。平成8年には九代目綱大夫を襲名し、相三味線は息子の清二郎(現藤蔵)になる。住大夫の奥さまは実姉。
  • 二代目鶴澤藤蔵は九代目源大夫の息子で昭和40年生まれ。11才で竹澤弥七に入門して清二郎を名乗るが、弥七が2年で没したため、その後は鶴澤清治門下となる。平成8年に父の相三味線になり、急に切場を弾くことになった重責で4カ月でダウン、ひと月休むことに。入院中に聴いた祖父の三味線の音や、師匠の「切場が大変なら一からやり直せばいい、でもやり続けるつもりなら二度と休むな」という言葉で続けることを決意。
  • 質問「襲名に際し何故この演目を選んだか」に対する答え〜〜源大夫が織の大夫のとき、若手の練習会のようなもので初代藤蔵の三味線で初めて語ったのがこの「実盛物語」で、語り終えたあとに山城少掾に「よかった」と褒められたのが大切な思い出なのだそう。
  • 聴いた音源
    • 七代目源大夫&四代目豊澤仙糸による『国姓爺合戦』三ノ口「楼門」
    • 九代目源大夫(織大夫・30才くらいの時)&初代藤蔵&[ツレ]五代目鶴澤燕三&[琴]竹澤團二郎(現團七)
      • 七代目源大夫の声と初代藤蔵の声(演奏の合間に入る声)と現源大夫の声はよく似ていました。現藤蔵はちょっと違う声質のようですね。