朝日新聞の夕刊

Bエンタ・古典クラシックのページに9月に国立劇場で上演する「テンペスト」の話が載っていました。


三谷幸喜さんのコラムがあっていつも読んでいるのですが、今日はその見出しを見て(内容ではなく)「あっ、そうか」って思ったことがありました。人形浄瑠璃というのは「浄瑠璃があって」「それに人形の動きをつける」っていうのが当たり前と言えば当たり前で、よって復曲とか新作と言えば「まず浄瑠璃ありき」です。
三谷さんのコラムの見出しは『人形で理想のキャスト』というものでした。脚本家・演出家が舞台を作るとき、「見た目」を念頭に置くと思います。俳優であったり、コミックであったり、実話なら写真かもしれません。人形浄瑠璃の作品もきっとそうだと思います。この人はこの首でこんな感じ、っていう風に思いながらセリフを言わせてると思うんですよね。


シェイクスピアもきっと、戯曲を書いたときは「こいつはヒゲ面」「この娘は小柄で丸顔」とかイメージを膨らませて書いたと思うんです。でもそれはあくまでもイギリスという国の中でのイメージで、それを和ものにしたらそのイメージをスライドすることはできないですよね?役者がセリフを言う普通のお芝居ならまだしも、和ものの語りに洋風の容貌が出てくるのには無理があると思います(私個人の印象です)。それも全部洋風の容貌ならともかくまぜこぜでは・・・「浄瑠璃はすんなり受け入れられた」けれど「見た目が受け入れ難かった」のはやっぱりそこだなあ、って。


考え方を変えれば、逆に人形さんの方が柔軟なのかも、とも思います。カオス状態になっている人形さんに歩み寄って楽曲にも西洋の楽器とかを取り入れてみたらもっと違ったかもしれません。チリンチリンという効果音だけでなく妖精のところはピッコロ入れちゃうとか(ふざけてるんじゃないですよ)。

人形さんが「この首でこういう話を作ってほしいなあ」っていう風に人形さん側から復曲・新作の話題が出ることってないんでしょうかねえ。時代が変わっていくのなら、それもまたありなんじゃないかと思ったり。


あと、ま、これも個人的な考えですが「まあとにかく”話題にはなったのだから(=お客さんが入ったのだから)”よしとしましょう」って言うのを聞くことがあるんですけど・・・「それでいいんでしょうか?」せっかくの本を一発屋にしないために、次代に残すために、今の自分のためでなく次の世代の人のために、そういうの、プラス思考じゃない気がします。